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埼玉土建の歴史と活動⑪~国民的要求で共同の前進-臨調「行革」路線とのたたかい
【埼玉土建本部】
つぶやき
不定期で、埼玉土建の歴史と活動(ダイジェスト)を紹介していきます。
皆さんに埼玉土建の事をもっとよく知っていただけると嬉しいです。
【第11回】国民的要求で共同の前進
80年代に入ると、政治、経済、社会などあらゆる領域で、これまでの枠組みを変更する動きが本格化します。日本社会のあり方が大きく変化するのでした。
1982年(昭和57)11月、中曽根内閣は、「戦後政治の総決算」をとなえて登場し、臨調「行革」の推進、日米関係の強化と軍事大国化の反動的な政治をおしすすめます。それは「活力ある社会」をつくるには「自立・自助」「民間活力の導入」が必要と、公的福祉の全面的な切り捨て攻撃を強め、また「国際社会」貢献を強調し、「日米同盟」の強化、軍事力拡大、増税路線を推進するものでした。
80年代の経済は、徹底したME「合理化」と賃金抑制・人べらしの「減量経営」によって、「経済大国化」し、対米輸出が急激にのびる一方、貿易摩擦、経済摩擦が激化していきました。
臨調「行革」路線とのたたかい
臨調「行革」路線による福祉切捨て攻撃は、まずお年寄りに向けられました。老人保健法(82年8月成立)がつくられ、それまで無料であった老人医療を有料化したのです。お年寄りの医療費は「枯れ木に水をやるようなものだ」などと閣僚らが公然と発言し、悪法を推進しました。
続いて、健康保険を大改悪する攻撃がかけられました。健康保険本人の10割給付を8割に引き下げ、国民健康保険の補助金を大幅に削減することを中心にしたものでした。当時土建国保は、日雇健康保険法にもとづき10割給付でしたが、国は「付加給付は法律でやめる」(国保課長)と言い出し、はげしく攻撃をかけてきました。
健保改悪反対全県いっせいちょうちんデモ
埼玉土建は、国民生活一つひとつに繰りだされる攻撃に対し、一つひとつ反撃を強めながら、同時に、臨調「行革」路線に反対するたたかいを重視し、共同した運動を強めました。
健康保険改悪の攻撃は、大がかりなものでした。組合は、これまでの延長線上ではたたかえないと、徹底して地域から世論をおこしていく運動に力をそそぎました。本部をはじめ各支部の機関会議で議論を重ね、地域での共闘体制を確立し、地域で決起集会・ちょうちんデモを、全支部ではじめていっせいにおこなうこととしました。
1983年(昭和58)2月、県内の労働組合や民主団体とともに、寒風吹きすさぶなか全県26カ所で、「もうガマンできない世直しちょうちんデモ・決起集会」に取り組み、埼玉土建は4711人が参加し、大きく成功させました。この地域共同行動は、知り合いの多い地域でデモをすることになり、影響を心配する声もありましたが、大きく世論を喚起することができ、まさに必死の取り組みでした。
健保改悪法案は、会期内の成立を阻止し、廃案の一歩手前まで追い込みました。しかし84年8月、自民党と社会党などの裏取引で強行採決されてしまいました。その中でも土建国保は、組織の総力をあげたたたかいで10割給付を認めさせ、守り抜くことができました。
こうして健保闘争は組合結成以来の最も激しいものとなり、歴史に残るたたかいとなったのでした。