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埼玉土建の歴史と活動⑭~建設産業民主化、危機打開のたたかい-結成20周年行事に2万人が結集
【埼玉土建本部】
つぶやき
不定期で、埼玉土建の歴史と活動(ダイジェスト)を紹介していきます。
皆さんに埼玉土建の事をもっとよく知っていただけると嬉しいです。
【第14回】結成20周年行事に2万人が結集
1991年(平成3)春、バブル景気の崩壊によって日本経済は、かつて経験したことがない長期の不況におちいりました。国際的には、アメリカなどの多国籍軍がイラクを攻撃し湾岸戦争が勃発(91.1)、ソ連・東欧の体制崩壊(91年12月)、アメリカ主導の経済「グローバル化」の進展など、激動・激変の時代となりました。
こうしたなかおこなわれた日米構造協議(90年6月)で、10年間で430兆円もの公共事業の拡大をアメリカに約束し(94年には630兆円に拡大)、年間約50兆円の大型公共事業をおこなう一方、社会保障の支出は約20兆円と「逆立ち政治」をすすめるのでした。それは国民生活の切り捨てと、国・地方自治体に、空前の規模の借金財政をまねくものとなりました。
また、佐川急便事件(92年2月)、ゼネコン汚職(93年3月)など金権腐敗政治が相次ぎ発覚、自民党は93年の総選挙で過半数を割り、「非自民」8党派による細川連立内閣が成立(93年8月)しました。その内閣のもとで小選挙区比例代表並立制と政党法など「政治改革」法案が強行成立(94年1月)させられたのでした。
建設産業は、95年4月「建設産業政策大綱」、5月「日建連ビジョン」によって、中小零細建設業の下請・手間請け、系列化・再編が促進され、大手建設資本による市場の寡占化が進行しました。またダンピング受注、指値発注が横行し、建設労働者・職人の賃金・単価は切り下げられ、不払い問題が多発し、仲間の仕事とくらしはこれまでにない深刻な状況におちいったのでした。そして大手資本とのたたかいが大きく押し出されるようになるのでした。
結成20周年行事に2万人が結集
1991年、大きく成長した埼玉土建を実感し、20年のたたかいの確信を全体のものにし、新たな決意を固めあうことを目的に「記念フェスティバル」と「分会住宅デー」の2つを柱に、結成20周年記念事業に取り組みました。
91年(平成3)9月22日、2万人の組合員と家族が参加して「記念フェスティバル」(上尾水上公園)が盛大に開催されました。
全分会開催をめざした分会住宅デーは、6月に465会場(昨年比186増)で開催、来場者は前年比87 %増の8072人、分会住宅デーを一気に発展させるものとなりました。
この大きな事業をつうじて、運動のすすめ方と目標を共通の認識にし、仲間に依拠していくなら、私たちの経験や予測をこえる力が発揮されることが教訓として確認できました。
小選挙区制反対、くらしと民主主義を守るたたかい
1993年(平成5)9月、細川内閣は、小選挙区制法案を政党助成法案とあわせ国会に提出しました。埼玉土建は、民主主義の生死がかかったたたかいとして、導入阻止に全力をあげました。あらためて学習を強化し、統一レジュメにもとづく支部・分会の学習に取り組み、たたかいをよびかけました。
小選挙区制に反対する埼玉連絡会(結成90年8月)とともに、57回にわたる国会行動、9回の中央集会、37支部で開かれた地域集会、新聞意見広告、毎週駅頭宣伝・連日の宣伝カー運行などに取り組み、国会請願署名は約10万筆となりました。
法案は、93年12月、衆議院で強行されますが、翌94年1月、参議院本会議で、国民世論の高まりと与党内の矛盾とが重なり、否決されました。ところが、土井たか子衆院議長あっ旋のもと密室談合による法案修正のうえ、衆参両院の本会議で可決・成立されてしまいました。このときセットで政党助成金制度も導入が決まりました。